TOEIC550からの外資勤務そしてアメリカ生活

アメリカでの暮らし、仕事、エクササイズなどを綴っています。

外資金融

日系銀行から外資金融に移って、一番驚いたのは、お金があるのが当たり前、という風潮でした。例えば、月末だから金欠〜、というようなことは外資にはありません。例えばハワイに行くとすると、周りの人が、ハレクラニなのカハラなの?って聞いてきます。ミシュランが最新刊を出せば、その最新の三つ星にもうすでに行っている人がいて、あそこはまーまー、もし行くなら言ってよ、というノリ。当時はまだfaxが存在してましたが、同僚あてに銀座のロオジエのシェフから上顧客にしか出さないであろうと思われるもんの凄く懇意なfaxが入り、都心の高層ビル最上階のラグジュリーなジムに行き放題、会社のクリスマスパーティーの予算は何千万で、都内の超高級ホテルを貸し切り、超高級ブランド品や海外旅行がザクザク、という有り様。これは金融危機の前の話ですので、今もこのようなバブリーな状態が続いているのかは分かりません。私はペーペーとして働いていましたからあまり恩恵は受けませんでしたが、私が見る限り外資金融というのは庶民ではありません。あそこに長くいると感覚が狂い、庶民的な感覚、というものはどっかへ行ってしまいます。

コンピューター企業で働く

このコンピュータ企業に契約社員として勤務することになった時、まず頭によぎったのは、果たして私の英語が通用するのだろうか、ということ。もしかしたらあまりにも英語が下手なため、クビになったりするんじゃないかと心配でした。でも、面接でも私が英語がネイティブではないことは一発で分かっただろうし、けっこうしどろもどろの面接だったのにパスしたのだから自信を持つべし、と毎日自分に喝を入れてました。通勤のバスの中、今日は一体どんな日になるのだろう、と日々不安でした。この会社では正社員はみな自分の部屋を与えられており、契約社員は2人で一つの部屋を使っていました。私のルームメイトは香港出身の女性で、彼女は日本語を勉強していたことがあり、日本が大好きで、私がルームメイトになってうれしそうで私もほっとしました。彼女がたまに日本語でしゃべってくれるので(拙い日本語でしたが)、英語だらけで頭がパンクしそうになった時に日本語で会話ができてほっとしました。彼女はたまに日本の本屋さんで買った、VERYとかGINGERなどの日本の雑誌も持ってきてくれ、一緒に部屋で読んでいる時は、なんだかまるで日本にいるような気分になりました。この子とは現在ではもう連絡不通になってしまった。今、どうしているかな~。

アメリカで仕事をする

仕事をしていなかった頃は、自分はアメリカ社会から必要とされてないんだ、と感じたり、日本でバリバリ働いている友達と連絡を取るのも嫌になったり、何をするにも心ここにあらず、という感じでした。今後もずっとアメリカで仕事ができずに鬱々とした日々を過ごすことになるのか、と思うとくらーくなるのでした。働いていない現地の日本人のママ友達などと会っても楽しく感じず、現地の日本人で企業した人たちを見ては、特にしたいこともクリエイティビティもない自分はビジネスを立ち上げることもできない、とますますくらーくなるのでした。

 

そんなある日、自分の履歴に近そうな契約社員の募集を見つけ、インターネットで応募したところ、その会社の派遣会社から電話が来ました。契約先は地元の某大企業でした。誰でも知ってるコンピューター企業です。派遣会社の人とは電話で話をしただけでしたが、私の経歴を先方は気に入っている、ということで、後日面接に行くことになりました。アメリカに来て初めての面接、それも超大企業で緊張しました。結果、採用されることになりました。この某大企業は私が契約した年から契約社員は誰でも一律18ヶ月契約、というルールになっていました。入って見ると、その会社では正社員と契約社員がほぼ半々でした。その年以前から入っていた契約社員は、私たちみんなあと18ヶ月ってことになっちゃったのよね〜、10年もここで働いてたのに、と不満そうでした。

アメリカ生活8年目

備忘録としてブログを始めることにしました。

 

アメリカ生活8年目です。アメリカの現地企業で働いており、日中は英語しか使ってません。日本語を書くことがほとんどないので、今、日本語で文章が上手く書けなくなってることに気付いた。ブログを始めるのは日本語を元のレベルに戻すいいチャンスかも。日本に一時帰国するとかなりの人から日本語がおかしい、とか言われる始末です。

 

そもそも私は日本生まれ日本育ちで33才でアメリカに引っ越して来るまで海外で生活したことはありませんでした。英語も所謂日本の英語教育しか受けていません。そんな私が、一体なぜアメリカで8年も暮らしてて、現地企業で毎日英語ばっかり使って働いているのか、これは自分でも考えると不思議過ぎて笑えてきます。ほんとです。折に触れて、なんでこんなことになっちゃったんだろう、と運命って不思議だなーって思う。

村上春樹のやがて哀しい外国語というエッセイの中で、村上さんがアメリカ在住時に感じた、母国語以外を使って生きていくことの大変さ、哀しさ、を綴られたくだりがありますが、いつ読んでも、ああ、分かる、そうなのだ、母国語以外を使って生きていくというのは本当にそういうことなのだ、と納得します。

 

私は大学卒業後、都内で日系の銀行に2年勤めた後、欧州系銀行に転職しました。大学時代にヨーロッパ言語を第一外国語として専攻していたため、その銀行に転職しやすかったのだと思います。その銀行で、現在の夫に出会いました。彼はアメリカ人です。その後、別の欧州系銀行にまた転職し、8年前に家族でアメリカに引っ越してきました。引っ越してきた後4年は仕事が見つかりませんでした。日系企業なら結構簡単に面接が進むのです。そして結構簡単に最終面接まで行ってしまうのでした。ですが、私はどうせアメリカに来たからにはアメリカの現地起業で働きたい、と思っていましたので、日系企業に就職することはありませんでした。また、日本にいた時も外資生活が長かったため、アメリカの日系企業の面接官が、ザ・日本のサラリーマン、というきっちりスーツで、ザ・日本的な面接をするのに嫌になっちゃった、というのもありました。というのも、この街ではだいたいビーサンにショートパンツ、タトゥーもばっちりで通勤、という人だらけなのです。夫の会社では、晴れた日には、今日は晴れたからサイクリングしたいから帰る、と言って早くに帰ったり、連休の前日は、こんな連休の前日に働かなくってもいいよ、と言ってみんな帰っちゃったりするような環境でした。夫の会社が特別ゆるい、という訳でもなく、そういう雰囲気がどこの会社にもあるような街です。せっかくそんな街にいるのに、きちっとスーツを着、9時5時終わっても残業がたまにあります、というような日系企業で働くのってどうかなあ、と思ったのでした。